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2009年4月 6日 (月)

江戸開城交渉、2日目。

昨日と今日は、この人たちに「ありがとう」を言う日だったのを、ついさっきまで忘れてた。
先鋒部隊の山岡鐵つぁん、従者の益満さん、幕府側の事務・財務のトップの大久保一翁さん、同じく軍事責任者の勝麟さん、そして官軍のトップの西郷さんのことだ。

慶應4年3月14日、つまり1868年4月6日。有名な江戸開城交渉の2日目。
1日目は勝さんが西郷さんのところに出向いていって、気心の知れた二人だけで話をしたが、2日目は幕府のもう一人の責任者である一翁さんも一緒だったそうだ。

頭山満(思想家)は語る。
 「明治元年三月十三日。
 大正十二年九月一日。
 この両日は、東京市民の心奥に刻みつけておかねばならぬ。すなわち前者は、西郷南洲翁、勝海舟翁両人の会見した当日であって、江戸攻撃中止の命令が下ったのだ。後者はいうまでもなく、大震火災当日だ。一は戦火を防ぐことをえ、他は天火(てんぴ)を防ぎえなかった思い出の日であるのだ。」


福沢ナントカって人なんかは、後になって「江戸が戦火に見舞われ日本中に内戦が広がったら列強の思う壺だ・・・なんてのはウソっぱちで、これは幕府の腰抜けが私利私欲のために徒に危機感を煽っただけなんである」みたいなことを言ったようだが、何をか言わんや、である。この後出しジャンケン野郎め、本当に日本が文字通りの「火事場泥棒」に遭ったら、あんた責任取ってくれたんだろうなー。傍観者の癖によく言うよ。(←そういう自分も後出しジャンケンか。笑)

この攻撃中止のための交渉が決裂したら、ナポレオン戦争のモスコー焦土作戦ならぬ、御存知「江戸焦土作戦」が実行されていた筈なのである。軍事責任者だった勝先生は胆の据わった旗本なんか高橋さんや山岡さんくらいしかいない、刀や槍を振り回すだけの侍なんか役に立たないと思っていたんで、町人やその筋の親分なんかのところに自ら出向いていって頭を下げたわけだ。
「おいらが合図をしたら、一斉に町に火を放ってくれ。同時に町の人たちを誘導して江戸湾のほうに逃がしてやってくれ。」
武士のくせに江戸の町をほっつき歩いたり遊んだり飯を喰ったりして町人の友達がたくさんいた勝さんならではの作戦でしょうな。
「ごちゃごちゃ考えてるヒマはねえ。やるときゃァやるぜ、おいらは。」という旦那の独り言が聞こえてきそうである。「てめえら官軍が、さむれえの私闘のために江戸の町と無辜の住人たちを大砲で吹っ飛ばそうってぇ了見なら、おいらだって黙っちゃいねえさ。」

勿論、そんなことにならないほうがいいに決まっている。
たまーに「震災や空襲で東京は壊滅したけど復興したじゃん、あのとき江戸総攻撃が行われてたとしても、その程度で済んでたんじゃね?」なんて言う輩もいるけど、目の前にいる権力も武器も持たない10万人に対して「おまいら焼き殺されて下さい」って言える政治家なんて、あるもんか。
いたとしたら・・・そいつはたぶん政治家じゃないんだろうねえ。

追記:なお、一連の談判の主役を張ったはずの勝先生は、交渉1日目の日付を12日と間違って記憶(記録?)していたらしい^^; こういうイイカゲンさが、この先生の素敵なところである。

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