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2009年11月28日 (土)

「夢酔獨言」解読用年表(PC用)

こちらで年表のリンクを張っておいたが、どうやらhtmlファイルの文字化けがデフォルトの状態みたい。何かそういうの面倒くさいんで、ブログに表を直接貼っつけておくことにする。ケータイではちゃんと見られないと思うけど御勘弁。
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「夢酔獨言」解読用年表 >>

年号(年齢) 小吉さんのあゆみ
1802年(1歳) 旗本・男谷平蔵さんの三男坊として生まれる。
お妾さん(別居中)の子だったが本妻に引き取られて育てられる。幼名「亀松」。
1806年(5歳) 凧喧嘩がきっかけで3つ年上の子供に唇を切る怪我をさせる。
罰として父に柱に縛られ、下駄で殴られて頭部から流血
1808年(7歳) 歴とした三河以来のお旗本、勝さんちの養子に。幼名を「小吉」と改める。
先代・甚三郎さん夫婦は老母と一人娘のお信ちゃん(5歳)を遺して他界、御家断絶の危機だった。(なお甚三郎さんも養子。)
養子縁組の真偽を確認する「判元見届」のとき、年齢と名を訊かれ「小吉と申します。歳は17で御座います。」と言ったら、小普請組支配の石川さんが「17にしては随分老けてるなあ」と笑う。

この頃20~30人を相手に大喧嘩。腹を切ろうとして米屋さんに止められる。
1809年(8歳) 40~50人を巻き込んでの大喧嘩。「竹槍」やら「なまくら脇差」やらまで登場する大騒ぎに。父のお仕置きで30日間押し込めに遭う。
1810年(9歳) 柔術を始める。
「男谷の悪戯っ子」として相弟子の子供やその親たちに憎まれ、稽古の帰りに40~50人ほどに待ち伏せさせて襲撃される

寒稽古で徹夜で美味いものを持ち寄って皆で食うイベントがあった際、相弟子たちに天井に括り付けられる。腹立ち紛れに上から散々に小便を引っかけて御馳走を台無しにしてやる
1811年(10歳) 馬術を始める。
1812年(11歳) 剣術を始める。
小普請組支配の石川さんの息子が「40俵は小高だ」と笑いものにするから、木刀でぶちのめして悪態をついて泣かしてやる
1813年(12歳) 聖堂で学問を始めるが、授業を抜け出してばかりいたので直ぐに退学処分。本人は大喜び。

毎日馬にばかり乗っていたら金がなくなって、親の金に手をつける
1814年(13歳) 毎日不味いものばかり食わせ、小言ばかり言ってくる養家の意地悪ばあさんの嫌がらせを、遂に兄の彦四郎さんの妻のおゆうさんに打ち明ける。
お父さんの計らいで毎日飯は自分で作って食べて良いことになるが、醤油に水が入っていたり等、意地悪は続く。
1815年(14歳) 意地悪に耐えられなくなり、出奔
上方へ向かうが、浜松で「ごまのはい」に遭って身ぐるみ剥がされホームレスに。病気になったり道ばたに倒れたり女郎屋の客に助けられたり駕籠に乗せてもらったり・・・といろいろな経験をする。

夏に箱根山中で野宿。夜に寝返りを打った拍子に崖から転落し、キンタマを強打。腫れ上がって膿が溜まり死ぬ思いをするが、隠し通して全治2年

*「ごまのはい」について
旅人のふりをして道中で盗みをする輩。
由来=胡麻にハエが混ざっていても解りにくい→盗人が旅行者に紛れていて解りにくい→「胡麻の蠅」、高野聖の格好をして護摩の灰とやらを押し売りした連中がいた→「護摩の灰」
1817年(16歳) 御番入(就職)しようとして、小普請組の頭に御機嫌伺いに行くが、自分の名前も書けなくて困る。乞食をした話を正直にしたところ「よく修行したな」と感心される。

従兄弟(男谷忠之丞さん。新太郎&忠次郎兄弟の父)の家の用人・源兵衛さんに喧嘩のしかたを教わる。八幡のお祭りの日に早速この源兵衛さんと新太郎・忠次郎兄弟と4人で連れ立って喧嘩をしに行く。50人相手に大立ち回り

以来、毎日が「喧嘩の稽古」
この年の暮れには例の4人で浅草市で大喧嘩

*男谷新太郎
後の剣聖・男谷精一郎信友。後に兄・彦四郎さんの養子になるので、小吉さんにとっては家系図上は甥っ子に。1798年生まれと伝えられているが、1810年説もある。子母沢寛先生の「父子鷹」では精さんは小吉さんの8コ下ってことになってる。1810年説のほうか。

次兄の同僚に吉原に連れて行かれ、女遊びにハマる。遊ぶ金欲しさに兄のところから年貢の金を200両盗み、代わりに石ころを入れておくが、勿論すぐにバレる。
1818年(17歳) 忠次郎さんと剣術の手合わせをしたら、ボロ負け。団野源之進先生のことを聞いて、弟子入り。剣術に明け暮れる。もともとスジがよいので、めきめき上達。
1819年(18歳) 道場破りが趣味に。他流試合を商売にみたいにしているうちに大勢の子分が出来たので、怖いものがなくなる。平山行蔵先生のとこに出入りするようになったのもこの頃。

お信さんと結婚。

交際費が嵩んで借金まみれになる
1822年(21歳) 遂に一文無しになり、再び出奔。日本国中を斬り合いをして歩き、斬られて死んでも悔いはないと思って、剣術道具一式を抱えて東海道を走り出す。

7月、精一郎さん(新太郎さん)が迎えに来て、江戸に送還。父の平蔵さんが3畳の座敷牢を拵えて待っていて、そこにぶち込まれる。柱を2本抜けるように細工をしたが、逃げるのをやめて手習いをすることに。(24歳までの3年間、毎日読み書きの練習。)
1823年(22歳) 第一子(長男)誕生「麟太郎」(`・ω・´)と名付く。

小吉さんは勿論まだ座敷牢の中。
1825年(24歳) 「息子が3歳になったから家督をやりたい」と父に話したら「一度は人並みに奉公しろ。その後は好きにすればいい」と諭されて就活。毎日裃姿で有力者を訪ね歩くが、上手くいかない。

天野左京さんという人に土地を借り、家を建てる間は2階に居候。左京さんが突然病死、天野家の本家が左京さんの家を潰そうとするのを全力で阻止。

人の家は収めたが己の家は収まらない、と困っていたら老人が一言。
「怨みを恩で返すようになさい。」
で、その通りに生きる決意をする。
1827年(26歳) 昔いろいろ世話を焼いてやった山口鉄五郎さんのところに引っ越し。

刀剣の売買を始める

父・平蔵さん死去。心底ガッカリする。

吉田兵庫という神主と親しくなり、頼まれて亥の日講を主催。500~600人が加入。この神主の根性が曲がっていることが判り、自分が顔を利かせて加入してもらった分については契約解除。暫くして亥の日講は潰れたらしい。

この頃より暇にまかせて浅草や吉原を遊び歩く。刀剣の露天商、鑑定、研ぎ、胴試しなどで生計を立てる加持祈祷を習い始めたのもこの頃。
1829年(28歳) 自分は就職できないでいたのに、長男・麟太郎くん(7歳)が奥勤めの「お役人」に
大奥勤めの親戚のおばちゃま(阿茶の局さま)に御殿のお庭見学に連れて行ってもらったとき、大御所家斉公に大層気に入られて、初之丞さま(5歳)の御学友・遊び相手に大抜擢。

*麟太郎くんの殿様生活について。
9歳までは大奥の阿茶の局さまのお部屋で生活していたが(9歳になったら男子禁制ルールに引っかかる)、お美津の方さま(後の本寿院さま)なんかに「麟さん、麟さん」とメチャクチャ可愛がられたらしい。子供の頃の麟さんは女の子に間違えられるほど綺麗な子供だったとのこと。
1830年(29歳) 入江町の岡野孫一郎さんの土地に引っ越し。

白米ばかり食べていたら脚気にかかる
1831年(30歳) 御殿から帰ってきて本の稽古に通っていた麟太郎くんが犬にキンタマを囓られるという大事故に遭って死にかける。小吉さん、毎日毎晩暴れ散らし、たったひとりで抱いて看病をし、裸参りをする。近所の人に気が狂ったかと思われる。麟さん70日で完治。

*本書には坊やの怪我の具合については記述なし。子母沢寛先生の作品やマンガ「風雲児たち」では玉を片っぽ喰われちゃったことになってる。山路愛山先生の伝記本の古典「勝海舟」によれば袋を「食い破られた」ことになってる。真相は不明。・・・す、スミマセン、話題がお上品で。

岡野孫一郎さんの揚げ代(女遊びや飲み食いのツケ)が溜まって訴訟に発展しそうになる。駆けずり回って丸く収めてやる。
1835年(34歳) 娘が生まれる。(実は彼女の上に2人ほど女の子がいるらしいが、彼女らのことはよくわかっていないのだ。ひとりは「おはなさん」って名前みたいだけど。)「順子」と名付く。
1817年(36歳) 銭座の息子・熊さんと吉原で大喧嘩。2階から熊さんを投げ落としたら、暫くして20~30人ほどの鳶口を持ったヤツらに店を包囲される。

浅草市に多羅尾七郎三郎さん、男谷忠次郎さんらと5~6人で連んで出掛けたところ、多羅尾さんがイキナリ侍に禿頭をぶん殴られる。小吉さん、仕返しに侍の帯を切断
1838年(37歳) 隠居。「夢酔」を名乗る。
16歳になった麟太郎くんが家督を継いで小普請組に入る。

*隠居を決めた理由。
何か悪行が祟って御家がどうの(お取潰とか)、ということではない。長男の麟さんが初之丞さまの側近として一橋家に召し抱えられることが内定していたため。麟さんが当主となる準備として小吉さんが隠居をする届け出をしたということらしい。
初之丞さまは前の年、元服して慶昌と名を改め一橋家の当主に。しかしその慶昌公は1年も経たないうちに亡くなってしまい、麟さんの出世の話はオジャンになってしまう。

この頃、剣豪・島田虎之助さんと親しくなる。虎さんは息子の柔道の相弟子で、精一郎さんの高弟。この頃浅草で道場を開いたが、精さんの言いつけで麟さんが内弟子に入ったため、小吉さんが挨拶に言ったのが親しくなったキッカケ。小吉さんは、虎さんが田舎から来た堅物(中津藩士)と聞いてわざわざ派手な着物を着て会いに行き、吉原に連れ込んでキモを潰してやったとのこと。

虎さんの勧めで香取・鹿島に参詣。

「大川丈助一件」。岡野家を襲った難事件を見事に解決、関わった連中に怖れられる。
1840年(39歳) 摂州に無断で行ったことが支配頭にバレて、外出禁止(他行止め)に。

この年、長兄・彦四郎さん亡くなる。

茶道を始める
1841年(40歳) 大病。身体が浮腫んで寝返りも打てなくなる。(脚気が悪化?)

老中・水野さまの御改革のとばっちりで不良旗本のブラックリストに載ってしまい、支配頭から文句が出て「同役預」に。息子と同じ小普請組の保科栄次郎さんちに押し込められる。

*同役預の実態
麟さんの話によれば、この同僚の家は二間の広さしかなかったらしい。家は4両2分で売り払われ、麟さん大迷惑。(→「氷川清話」) なお小吉さんは病状が悪化、腰が抜けて立ち上がれない状態にまでなったらしい。
1843年(42歳) 初夏「平子龍先生遺事」、初冬「夢酔獨言」執筆。

*翌年、虎さんとこで無茶苦茶な剣術修行をしていた麟さんが免許皆伝に。その翌年にお民さんと結婚し、そのまた翌年には赤坂に転居し、父母と別居。
1850年(49歳) 嘉永3年9月4日、勝左衛門太郎惟寅、大往生

*実は小吉さん&お信さんのお墓は江戸じゃなくて静岡にある。御一新の後に幕臣が静岡藩に強制移住になった影響なんだと。

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追記(11.29.):
小吉さんは、いろんなとこからいろんなことを頼まれてるんだが、難事件を持ち込まれても、ドンと引き受けて快刀乱麻を断つ如く解決しちゃってるんだよな。困難があると召し出されるのは、息子の麟太郎くんと一緒。英吉利を動かして露西亜軍を対馬から立ち退かせたり、大奥の贅沢をやめさせたり、官軍の総攻撃を食い止める談判をやったり。
無欲で潔い下町の大親分と、明治政府内で面と向かって逆らえる者もなく外国人からも信頼されていた大規模政治家の姿がかぶって見えるわな・・・と思ったら、「夢酔独言」の解説で速水先生も似たようなことを仰有ってた。思うことはみんな一緒のようだ(笑)

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