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2010年1月21日 (木)

111回忌。

明治32年(1899年)1月19日、夜。
 
東京の戸川邸では夕食後の穏やかな時間が流れていた。時計は午後8時を回ろうとしている。
さきほどまで正月らしく百人一首のカルタ取りに興じていた子供たちも床に就こうとしていた。
 
電報が届いたのは、そのときである。
「何、電報か。どこからだい?」
「だっ、旦那さま、『氷川』とあります。」
 
赤坂区氷川町といえば、戸川先生の長女の嫁ぎ先である匹田家のある場所である。
匹田家は昔五千石の大身旗本の屋敷、今は伯爵・勝家の敷地内に立っている。長女の夫・匹田元亀さんの母である孝子さんは勝伯の次女だ。
 
「娘の家に何かあったのか?」と、戸川先生は電報を大急ぎで開いた。

そこには意外なことが書いてあった。

 
「トノサマシス スグコイ」

 

「殿様死す・・・?」
 
戸川先生はハッとした。
勝先生だ。
間違いない。

先生は家を飛び出した。そして闇の中を大急ぎで車を走らせた。
大寒前日。帝都東京は凍りそうな星空だった。

 
勝伯の屋敷には既に客人がいた。伯の三男坊・梶梅太郎さんが出てきて「こちらへどうぞ。」と例の小さな一室に案内してくれた。

いつも勝伯が日々座談を楽しみ寝起きをしていた部屋は暗く、ただ行灯の光が力なく揺れているだけだった。
伯はまるで眠っているかのように、小さな身体をそこに横たえていた。穏やかな顔をして、まるで仙人みたいだ、と戸川先生は思った。
伯の傍らには頭巾を被った年配の女性がいた。一回り年の離れた伯の末の妹、瑞枝さんだ。故・佐久間象山先生の未亡人である。
「これは戸川先生。」
彼女は静かに顔を上げた。
「兄は何んにも申しませんでした。ただ、コレデオシマイと申しました。」

 
コレデオシマイ。
「事、竟(おわ)れり」という意味だろうか。これまた先生らしいや、と戸川先生は思った。

 
この日から、邸内はまるで昼夜の区別などなくなってしまった。ひっきりなしに客がやってきた。
陛下からのお使いがやってきて位階昇進の御沙汰があったり、慶喜公や家達公がお見舞いに来たりもした。

 
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勝伯が脳溢血の発作を起こして倒れたのは、19日夜の入浴後のことだったという。
侍女のお糸さんが助け起こすと、伯はニヤリと笑って「おいら、今度は死ぬかもしれないよ・・・。」などと言ったそうだ。実は伯の頭の血管が切れたことは初めてではない。日清戦争開戦の折などは、怒りのあまり大眩暈を起こしたという。ご本人も「俺はすぐに頭に血が上るから、困ったもんだ」と冗談交じりに話していたこともあったらしい。
正式に薨去を発表したのは21日。故人の意志により新聞などに葬式の広告は載せず、
友人知人の類には「逝去」とだけ伝えたという。いずれも当時としては異例のことだった。

 
ということで、勝先生ご逝去の発表があったのが、111年前の本日1月21でした。(あーあ・・・墓参りに行きたかったな。)

 
合掌。

 
元ネタは戸川残花先生(旧幕臣)の手記。
勝海舟先生への思いの詰まった、その名も「海舟先生」という著作の中にも収められていて、当時の話を読むことができます。
戸川先生は痩身短躯の勝さんについて、「(修行はしてあるが)決して天資強健の人ではない、航海に堪へ得らるゝ身ではない。」と言い切っている。それなのに先生は不屈の精神で頑張ったのだ、と。
とびきり面白いかどうかは別にして、その優しい眼差しが随所に感じられるのがこの著作物のいいところです。
 

 
 
 
・・・しかし「コレデオシマイ」というのは辞世の言葉としては傑作だと思います。瑞枝さんから直接この最後の言葉を聞いた戸川先生も「亦以て先生の高風を仰ぐ可し」と感心されている。だいたい、こんな剽げた言葉で人生を締めくくるなんて、随分と粋な男じゃないか。

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