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2010年2月 5日 (金)

2月4日:咸臨丸品川出帆。(Vol.02)

前回のエントリー「Vol.01」のつづき。
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颱風並みの低気圧が猛威を揮う冬の太平洋は連日荒れた。
勝さんの高熱は下がらない。 
航海に出て何日か経ったある日、その勝さんが甲板に姿を現した。船から身を乗り出し、突然ゴボッと「何か」を吐いた。
「おや、船酔いですか。」
やはり蒼い顔をした船員がニヤニヤしながら声をかけた。勝さんはガバッと振り向いた。
「おう、だったらどうだってんだい。」
顔面蒼白、眼光だけが異様に鋭い。唇からヌラッと赤い液体が流れた。船員はギョッとした。勝さんは一瞬ニヤッとすると、また何処かへ行ってしまった。
 
こんなことを何度か繰り返し、勝さんは漸く動けるようになった。天気は相変わらず悪い。もともと乗り物が苦手だった勝さん、あまり揺れると眩暈がした。
 
実に皮肉なことではあるが、勝さんが寝込んでいる間、船の操舵において中心的役割を果たしたのは結局メリケンの乗組員たちだった。日本人の船員の大多数は初めて経験する悪天候に太刀打ちできずにいた。船酔いで潰れた挙句、真冬の風と冷たい海水に体力を奪われ、病気に罹る者も出た。そんな中でメリケンで航海術を学び船員の経験もある中浜万次郎の元気な働きっぷりや、数字に強い小野友五郎の正確無比の天文観測の技術なんかが辛うじて日本人船員の面目を保っているといった感じだった。
ジョン・ブルック大尉は呆れ返っていた。日本人の船員たちの操船技術の未熟さや経験不足は仕方がないとしても、それ以上に船員たちの役割が明確に割り振られていないこと、彼らが悪天候に対してあまり危機感を覚えていないことに心底ウンザリしていた。
 
「アドミラル・キムラ(木村提督)」も「キャプテン・カツ(勝艦長)」も、あろうことか「sea sickness(船酔い)」で寝込んでしまっているのだ、と大尉は聞いていた。
大尉の見たところ、アドミラルはキャプテンより年少だったが、肉付きの良い頬をした温和な印象の男だった。身分や慣習を厳しく守るちょっと保守的な人物のようだった。一方のキャプテンは快活な人物に見えた。感じのよい顔立ちに、明るい表情。精悍な体つきといい、ひょいと手すりに飛び乗ったりする身軽な動作といい、よく訓練された船乗りのようでもある。傍でまじまじと見てみると驚くほど小兵だったが、大尉を見上げるその両眼は他人の心の中まで見透かしてしまうような鋭い光を放っていた。
 
太平洋に乗り出してから37日目の朝、咸臨丸はサンフランシスコの港に錨を下ろした。
人々は海の向こうからやってきた侍たちを熱狂的に歓迎した。新聞記者で詩人のホイットマン氏は侍の行列を見たときの新鮮な驚きを詩に残し、新聞記事にした。彼は行列の中にいた小柄な侍の風貌に衝撃を受け「あれこそが人間の顔だ」と書き留めた。詩人の心をも揺さぶった艦長・勝麟太郎の精悍な目元や理知的な額は、メリケンでもちょっとした評判になった。
当の勝さんは、これまで書物で読んだりオランダの軍人さんたちから聞いたりはしてきた「近代社会」というものを肌で感じることができたのを喜んでいた。恩義とか信義などといった私的なつながりではなく公的なルールに基づいて動く集団を、そして門地ではなく適材適所であることを第一に考えた人材の活かし方を実際に見ることができた。裁判所から呼び出しを食らったり、週末ごとにキリシタンの教会に連れて行かれたりという珍しい経験もしたが、この大冒険が元剣術遣いの軍人・勝麟太郎を大政治家・勝海舟へと変貌させる第一歩となった。
それから、女性を船に乗せないという日本の習慣を知ったメリケンの淑女たちが男装して乗船してきたとき、木村さんは素知らぬふりをして土産にかんざしの入った包みを渡すという小粋なはからいをしてのけた。けちな幕府に代わって乗組員たちへの十分な手当を支払うため、また異国で日本人が困ることがないようドル札を用意するために殆ど全財産を使ってしまった木村さん。彼はこの航海が生まれたばかりの海軍の歴史にとってどんな意味を持つものなのかを理解していた。
 
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勝さんとメリケンとの縁は、その後もずっと続くことになる。1867年には15歳になった長男の小鹿(コロク)さんが米国アナポリスの海軍学校に留学した。25歳で帰朝した後は日本の海軍で活躍したが、残念ながら40歳で病没してしまう。この小鹿さんの知り合いで、1871年に来日して静岡学校で英語や科学を教えていたE.W.クラークという米国人教師も勝さんと親しくなった。彼は帰国後「勝安房---日本のビスマルク」という本を出版した。クラークさんはこの本の中で「世界を3周したが、彼以上にナザレ人イエスの人格を備えた人を私は知らない」と書いて異教国の奇傑を絶賛している。1875年に来日したホイットニー一家の娘・クララさんは、勝さんちの三女・逸子さんの親友になった。さらに1886年には頼りなくお調子者の不出来な三男坊・梅太郎さん(母の実家の梶姓を名乗る)と結婚し一男五女を授かった。1899年に勝さんが亡くなると、夫に生活力がまったくないことを実感したクララさんは子供たちを連れて帰国してしまうのだけど、彼女は自身の父親であるウィリアムさんの話も子供たちの父親である梅太郎さんの話もしない代わりに、勝さんとの美しい思い出をよく語っていたそうである。末娘のヒルダさんは日本のお祖父ちゃんをとても誇りに思っていたので、戦時中も「カジ」姓を名乗り通したという。
 
さて、あの航海から145年目の2005年秋。
米国バージニア州に暮らす大尉の孫ジョージ・ブルックさんの家に一枚の日本人の肖像画が保存されているのが「発見」された。A4版ほどのサイズのその絵、左手に脇差しを持ち、ぐっと正面を見据える総髪の侍が描かれている。モデルは勝麟太郎だ。肖像画の裏には「カーンより、ブルックへ」という文字が書かれているという。一緒に乗船していた絵師のカーン氏も大詩人ホイットマン同様、この日本人の風貌に創作意欲をかき立てられたのかも知れないね。
 
・・・ということで、安政7年1月13日(西暦1860年2月4日)は「咸臨丸品川出帆」の日でありました。
木村さんが私財を擲ってまでお金を用意した話、その覚悟と責任感において個人的に好きな話なんですが、これってよく考えてみると非常に「日本的」なんですよね・・・。明治時代に勝さんが「日本では外国とは違って、指揮官たる者普段から態度が立派で面倒見が良い人でなければ兵隊や水夫を手足のように動かすことはできない。上官となる者は兵卒の10倍頑張らなくてはいけない。」というような意味のことを書いてますが、わざわざこんなことを言わなくてはいけないということ自体、規則や指揮命令系統が厳正でないという状況の現れなんだろうな、という気がしてなりません^^; 
 
【追記】
実はこの「おはなし」、ここ2年ほど歴史本を読んでいるウチのオトンを読者に想定して書いたものであります。無茶苦茶読むのが遅い彼でも読めるよう一文一文を長くしないように、また「歴史ネタ」に疎くてもストーリーを掴めるように書いてみました。
2011年1月に後日談を加えたのち本当に父に読んでもらいましたが、ニヤニヤしながら読んでくれました。そして曰く「最近思うんだけど、勝麟太郎って面白いよな。」。
ええ、面白いですとも。昔から面白えさ。・・・でも、あんま人気ないんだよな(爆)

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