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2010年5月 4日 (火)

メモ:佐藤与之助政養

■文政4年(1821年)庄内〜明治10年(1877年)東京。
 
佐藤与兵衛さんの長男。1853年、満32歳で江戸に出てきて、砲術や練兵術を学ぶ。翌年には洋学界の新鋭、2歳年下の勝麟太郎の門下生に。田町の通称ボロ塾で軍学や測量などをみっちり学ぶ。
 
1857年には勝先生と一緒に長崎海軍伝習所へ。聴講生という立場ではあったが、満36歳にして軍艦乗りの勉強に精を出した。
 
1860年、勝先生渡米の際には塾の留守番を任される。
 
1864年、神戸海軍操練所と、それに先立って創設された私設の海軍塾の塾頭に。坂本龍馬たち塾生の面倒を見てやったりしている。
 
瓦解のときも故郷庄内には帰らず、勝先生のもとに残った。
維新後は明治政府に出仕。1877年、肺結核が急に悪化し、勝先生んちで亡くなる。満56歳。
 
 
■横濱開港の父。
横濱村と横濱港の測量を行い、そのデータを元に横濱港開港建言書を作成。それが幕府を動かしたことが、今日まで続く横濱港発展のもとになっている。
 
■鉄道の父。
維新後に民部省に出仕した与之助さん。貿易や交通の重要性や、外国人の先生方に頼るのではなく日本人の人材を育成することの重要性を説き続けた。(こういうとこが勝先生の弟子っぽい。)初代・鉄道助として鉄道開設の現場で大活躍、それが認められ、太政政務官の辞令により「政養」の名を頂戴することとなった。陛下が鉄道のことを知りたいと仰ったときには、勝先生と一緒に陛下の御前に呼ばれたりもしている。鉄道開設の話になると、長州の井上勝(イノウエ・マサル)さんばかり注目されるけど、庄内の佐藤与之助さんも忘るるなかれ。
 
■剣豪・島田虎之助が演出した出会い?
与之助さんが何処で年下の師匠・勝海舟を知ったのか?については諸説あるらしい。
①島田虎之助先生が庄内藩に剣術の先生として呼ばれていったとき、その剣技を見た与之助さんが虎さんに弟子入りを志願。ところが「拙者、今は修行中の身ゆえ、新しい弟子は取らぬことにしている。しかし是非にと仰るならば江戸へ行かれよ。拙者の高弟に勝麟太郎と申す者が居る。現在赤坂で蘭学塾を開いて居るが剣の腕は確かであり…」みたいな話になった…という説。
②やはり虎さんが庄内藩に出張剣術指南をしたおりに、藩士たちに新しい学問を学ばせたいと思っていた殿様が、蘭学が盛んな中津の出身で学問の素養もあった虎さんを捕まえて「江戸で蘭学の先生と言えばどんなのがいるんだ」と訊いたところ、虎さんは「年はまだ若いですが、勝麟太郎と云うのが居りましてな…」と宣伝。その結果、蘭学を志す庄内藩士たちの間でも勝先生の名前が知れることになった…という説。
 
とかまぁ、いろいろ。
 
そんな説なんてどうでもよいんだけどね。
漫画「幕末めだか組」の佐藤教頭&勝校長の文政生まれコンビがなかなか素敵なんで、ブログのほうにも佐藤与之助さんに関するメモを上げておくことにしました。以上。

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