カテゴリー「今日は何の日?」の19件の投稿

2011年1月19日 (水)

今年も来たか・・・112回忌。

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冬の薔薇。こんなに寒いのに健気に咲いてくれる。
 
旧暦の安政七年正月十九日は、あの咸臨丸が浦賀を出港し太平洋に乗り出して行った日。そして明治32年1月19日というのは、オイラの師匠(!)勝先生が亡くなった日なんだねえ。
単なる偶然の一致なんだけどさ。

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2011年1月 5日 (水)

やはり川越氷川神社へ。

今年も初詣は埼玉県川越市の「氷川さん」へ。
 
毎年「また来年も来ます」と決意表明をし、おみくじを引いて、お守りを買い替える・・というスタイルなのですが、今年もそんな初詣になっちまいました。

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今年も御籤を「釣る」。
釣りあげた黒い鯛(けっこうカワイイ)は「末吉」と告げている。勉強運が好調らしい。有難い。(洒落じゃない。爆)
 
お守りも充実。
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そして、例年通り大鳥居の中央扁額を写メに収め、一月いっぱいはケータイの待ち受け画面に設定するつもり。この扁額、間違いなく魔除けの効果くらいはあると思う。
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そのうち何故あの氷川のご隠居の揮毫が江戸から離れた川越なんかにあるのか訊いてみたいもんです。
 

 
一応、神社の公式サイト。
http://www.hikawa.or.jp/jinja/index.html
 
・・・幕末ネタで思い出したけれど、文化14年11月29日が1818年の今日。
個人的に最もカッコいい幕末キャラクターのひとりだと思っている大久保一翁さん(開明派幕臣)の誕生日でした。

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2011年1月 3日 (月)

気がつけば3日。

年末は風邪の治療と年賀状作成に追われ、気がつけば明日は仕事始め。
初詣は・・・5日あたりに行くか。
 
そういえば、西暦だと今日が坂本龍馬の誕生日だ。

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2010年5月 9日 (日)

勝先生と爵位の話①

あれは自宅のPCにExcel2007を導入した直後の話なので、かなり前のことです。
 
仕事で本格的にExcelを使う機会もなく、このままだと操作の仕方を忘れてしまいかねん、と思った自分は、何を思ったか「華族一覧(勲功者編)」を作ってみることにしました。
受爵者、家系、出身地、受爵年月日、爵位、主な役職や功績・・・といったものを表に纏めただけなんだけどね。
 
世間の「ヘンカツ嫌い」(アンチ勝先生)の皆さんの攻撃材料のひとつとして、よく引き合いに出されるのが、この受爵を巡る話である。
 
旧幕臣・榎本武揚、子爵。
同じく大久保一翁、子爵。
同じく山岡鉄舟、子爵。
 
んでもって、勝海舟、伯爵。
 
・・・旧幕臣の主立った連中3人が子爵さまなのに、勝さんだけ伯爵さまってどういうことよ?
 
そう思う連中は当時からいたらしい。
「本当は他の連中と一緒に仲良く子爵を貰う予定だったのに『五尺にたりぬししやくなりとは』という狂歌によって一つ繰り上げさせた」と、いう本当のような嘘のような噂が明治の御代から平成の時代まで途切れることなく伝わっているのである。
 
狂歌は馬鹿みたいで面白いが、繰り上げ要求なんて無粋なことをあの勝さんがやらかすだろうか、と思いながらデータで遊んでいた訳だけれど、そうするうちにやはり「繰り上げ受爵」は嘘じゃないのかなあ、と、別にひとりだけ伯爵さまでもおかしくないんじゃないかと思えてきた訳ですな。
 
一応、その理由を述べておく。
 
①確かに全員1887年の受爵だが、上の3人が5月24日に受爵しているのに対して、勝さんだけが、それより少し前の同月9日に貰っていること。
 
②1887年5月9日に伯爵さまになってる連中(板垣退助、大隈重信、後藤象二郎の3氏+勝さん)は全員「参議」を経験していること。更に旧幕臣の子爵さま3氏は「参議」にはなっていないこと。
 
これらの話から判断する限り、勝麟は「子爵をあげます」って言われて「イヤだ」と言ったから伯爵さまになったということではなくって、旧幕臣仲間とは別枠で爵位をもらっていたように思えてきませんかね。
 
ふん、なんだ。初めっから伯爵さまだったんじゃないか!! 
・・・と世紀の大発見でもした気分になっていたんだけど、もしそうだとするならば、どう考えてもこんなことくらい研究者の方ならば突き止めているに違いない。
 
と思ってたら、やっぱり。
去年の初めに勝麟研究家として有名な松浦玲先生がもう20年も昔に「狂歌で繰り上げ爵位は『ゴシップ』」と結論づけていらっしゃるという事実を「日本のアジア侵略と憲法九条 -田中正造、勝海舟、福沢諭吉、徳富蘇峰を見直す-」(下町総研)という本で知ることとなった。
 
さすがは松浦先生。
ときどきイヤになるほど厳しい批評をする先生だけど(しかも感情的なんじゃなくって理詰めなんだよな・・・)、そんな先生のおっしゃることだからねえ。「ししやくなりとは」は、やっぱりゴシップなのかな。
 
勝先生受爵の話は、近々続編を書くと思います。
今日は妙に疲れていて文章が纏まらないので、ここまで。
 
てことで、本日5月9日は、「板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、勝安芳の4氏に伯爵の爵位が与えられた日」でした。

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オマケ:
旧幕臣華族って、少ないようでそこそこいるんだよね。Excelの練習がてら円グラフにしたのがあるから、ここにも貼っておく。ただの練習だから「ダサい」って言うな(苦笑)
Photo
(クリックするとデカくなります。)

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2010年3月17日 (水)

ホイットマンと勝先生。

安政7年2月25日、グレゴリオ暦1860年3月17日は、咸臨丸が37日間の航海を終え、木村摂津守さま以下乗組員の皆さんが桑港に上陸した日であります。
 
今回のテーマは「顔」。何処で読んだ話か覚えていないのが誠に残念なのであるが、こんな話があった。 
 
―――――――――
1860年。
アメリカは熱い興奮に包まれていた。
日本政府(江戸幕府)からの使節団が、冬の太平洋の荒浪を乗り越えて遙々やってきたのだ。日米修好通商条約の批准書を取り交わすためである。
 
東洋から遙々やってきた誇り高きサムライたちの行列を熱狂的に歓迎する群衆のなかに、「ニューヨークタイムズ」紙のホイットマン記者がいた。
 
興奮気味に行列を見つめていた記者の瞳は、その中にいた一人の侍の顔に釘付けになった。そして、そのときの驚きと感銘を記事にした。
 
 
『あれこそが、人間の顔だ。』
 
―――――――――
 
ホイットマン記者てのはアメリカ近代の大詩人ウォルト・ホイットマンね。当時41歳だった。
そして、その「人間の顔」をした日本人こそが他でもない我等が(?)勝海舟だった…って話。麟さん、当時37歳。
 
そういや絵師として随行艦・咸臨丸に同乗していたカーン氏も教授方頭取・勝麟太郎をモデルに肖像画を描いているな。(→咸臨丸品川出帆)
 
画家に詩人。
芸術家が「描きたい」と思うような顔立ち…というより面構えだったんだろう。
まあ、芸術家でも何でもない自分だって、子供の頃に初めて勝先生の顔を拝見して衝撃を受けたからね。面構えの凄さに周章狼狽したもん(笑)  思わず「うわぁ…」って叫んで絶句したもん(笑)

しかし…「人間の顔」ねえ。
意志、叡智、誠実さ、そして誇り。
人生を真摯に愛し、また人生に祝福される人は、そんなものに満ち溢れた顔をしてるものなのかな。
自分もいずれはホイットマン記者に「まあまあ人間らしい顔」と言ってもらえる程度の顔になってみたいもんです。
 

ほんの出来心で「自称・勝海舟の弟子」になって約1年。気のせいか世の中が少し面白く感じられるようになった気がする(笑)けど、一番の収穫は、先生の凄い面構えに慣れたことかもしれない。(爆)

 
ということで、不定期更新・勝先生の逸話を晒す企画ですた☆.。.:*・° 

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2010年3月12日 (金)

勝海舟、187年目の「格言」。(と作者の雑感)

1823年3月12日、文政六年正月晦日から恰度187年。
勝先生のために蝋燭187本とそれが全部載りそうなケーキを用意するほどの経済力は自分にはない(爆) 
 
思いつきで「自称・勝先生の弟子」になってから今日で丸1年が経過したわけですが、最初は「誰か面白い人物を軸に日本史の知識を増やしてやろう」程度の気持ちしかなかった。でも、直ぐに「せっかく弟子入りしたんだからこの先生から学べそうなことは学んでやるぞ」と思い直しました。(自分、案外真面目なところもある^^;)

そんで最初の自由研究の材料に選んだのが、勝先生の言葉と伝えられる、こんな台詞。  

 
自分の価値は自分で決めることさ。
辛くて貧乏でも
自分で自分を殺すことだけは
しちゃいけねぇよ。

 
 
しちゃいけねぇよ、って・・・如何にも江戸弁っぽいですわな。(萌)
 
先ず「辛くて貧乏でも」って表現がいい。
この先生は「辛い」のと「貧乏」なのとは別のことだと考えてるんだろな。幕臣最下層の出身で天井板まで炊いちゃうような生活の中で現代人にはちょっと想像できないような苦労もしてるだろうに、日々の暮らしに不足があろうと身分が低かろうと胸を張って生きていく気概のようなものを感じます。
 
で、1年かけて大真面目shineに取り組んだのは、この台詞の出典がどうの、と云った歴史家がやりそうな七面倒くさい調べ物じゃなくって、次のようなことだ。
 

 
人間の「価値」とは何で決まるのだろう。
「価値」を「自分で決める」とはどういうことだろう。
「自分で自分を殺す」とはどういうことか。
(まさか本当に自殺するって意味じゃねえだろうし。)
 
以下、これまで考えてきたことを思いつくままに書き連ねます。

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人の価値を決めるのは、勿論貴賤や貧富なんかじゃないけど、「~すべきだ」という規範なんかでもない。
「どうするか」にある。
で、どうするか(行動)を決めるのは、どうしたいか(意思)だってこと。
これは去年の秋にも書いた。
 
「~すべき」だからって行動するのは自分の意思じゃない。自分の意思で行動するのでなければ、その行動に本当の価値があるとは言えない。
「嫌われたくない」「いい人だと思われたい」っていう一種のスケベ心から先回りして行動するのも、やっぱり自分の意思じゃない。
心から正しいと思って行動する。
心から誰かを思って行動する。
そうじゃなかったら、それは単なる「偽善」だ。「媚」だ。
 
偽善者は直ぐに人を恨む。
偽善者は直ぐにいじける。
「よかれ」と思ってやった結果が裏目に出たり相手が無反応だったりすると
直ぐに誰かのせいにする。
 
でも自分の意思で行動した人は、その結果「偽善者」と罵られようが、それを理解しない人がいようが、人が知らなかろうが、最後は納得して前に進む。
一時は恥ずかしい思いをしたり辛くなったりするかもしれないけれど、自分の意思で行動したことが自分の力になる。「後悔していない」「これでいい」と思うことができれば、成功しようがしなかろうが、他人の評価が高かろうが低かろうが、行動への肯定が自己の意思への肯定感に繋がり、自己そのものへの強い信頼に繋がるに違いない。
 
この過程を「自信を得ること」と言っても良いし、他人の評価に簡単に左右されずに「自分の価値を自分で決めること」と言っても差し支えないんじゃないか。
 
失敗が辛いから、他人の評価が恐いからって、確実なチャンスを待ったり、他人の顔色ばかり窺ったりしてたら、ひとりでは何もできない自分のままで終わってしまう。
いつまでたっても人を恨んだり妬んだり勝手にいじけたりしながら、居たくもない場所にずっと居続けることになる。
 
そんなのは臆病者の人生だ。
沢山のチャンスを棒に振り、沢山の出会いを逃し、得られるはずのものも得られずに、卑屈な爺さん婆さんになって、鬱々とした顔のまま墓に入ることになる。
 
そりゃね、失敗なんかしない方が楽だし、人の顔色を窺って都合良く立ち回ってる方が楽だろう。「失敗するために挑戦するなんて馬鹿のすることだ」とか「あいつのためを思ってやったのに、それが解らないなんて人情の解らんヤツだ」とか、嫌われ者の老人のようなことを言ってるほうが楽に決まってる。
 
でも、そんなんじゃ一生自分の力を発揮しないまま終わっちまうわな。 
自分を安全な殻に閉じこめて。
そのうち今度は惨めさから自分を守ることに必死にならざるを得なくなってさ。
 
これって「自分で自分を殺す」ってことだよね。
 
 
 
勝海舟って御仁は、たとえ理解されなくても人が知らなくても罵られても命まで狙われても、自分が正しいと信じることを、自分が今できる精一杯のことを、ひたすらやり続けた。
媚びず、怖れず、開き直らず、言い訳さえせずに、どんな大波が来てもただ飄々と乗り越えていった。自分の志と義の示す方向へ「まっつぐ」に進路を取って。
残念ながら自分は勝先生のような確かな歴史眼・人間観察眼は勿論、高速回転の軟らか脳味噌も達者な口もクソ度胸も持ち合わせていないわけだが、こんな人間でも「自分で自分を殺すこと」くらいは何とか阻止しなくちゃならないんだろうなあ・・・。
 
 
 
自分、ちょっとは勝先生の弟子らしくなったんだろうか(笑)
やっぱり「テメエのようなグズは破門だぜ」って言われちゃうかねえ。

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2010年2月 5日 (金)

2月4日:咸臨丸品川出帆。(Vol.02)

前回のエントリー「Vol.01」のつづき。
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颱風並みの低気圧が猛威を揮う冬の太平洋は連日荒れた。
勝さんの高熱は下がらない。 
航海に出て何日か経ったある日、その勝さんが甲板に姿を現した。船から身を乗り出し、突然ゴボッと「何か」を吐いた。
「おや、船酔いですか。」
やはり蒼い顔をした船員がニヤニヤしながら声をかけた。勝さんはガバッと振り向いた。
「おう、だったらどうだってんだい。」
顔面蒼白、眼光だけが異様に鋭い。唇からヌラッと赤い液体が流れた。船員はギョッとした。勝さんは一瞬ニヤッとすると、また何処かへ行ってしまった。
 
こんなことを何度か繰り返し、勝さんは漸く動けるようになった。天気は相変わらず悪い。もともと乗り物が苦手だった勝さん、あまり揺れると眩暈がした。
 
実に皮肉なことではあるが、勝さんが寝込んでいる間、船の操舵において中心的役割を果たしたのは結局メリケンの乗組員たちだった。日本人の船員の大多数は初めて経験する悪天候に太刀打ちできずにいた。船酔いで潰れた挙句、真冬の風と冷たい海水に体力を奪われ、病気に罹る者も出た。そんな中でメリケンで航海術を学び船員の経験もある中浜万次郎の元気な働きっぷりや、数字に強い小野友五郎の正確無比の天文観測の技術なんかが辛うじて日本人船員の面目を保っているといった感じだった。
ジョン・ブルック大尉は呆れ返っていた。日本人の船員たちの操船技術の未熟さや経験不足は仕方がないとしても、それ以上に船員たちの役割が明確に割り振られていないこと、彼らが悪天候に対してあまり危機感を覚えていないことに心底ウンザリしていた。
 
「アドミラル・キムラ(木村提督)」も「キャプテン・カツ(勝艦長)」も、あろうことか「sea sickness(船酔い)」で寝込んでしまっているのだ、と大尉は聞いていた。
大尉の見たところ、アドミラルはキャプテンより年少だったが、肉付きの良い頬をした温和な印象の男だった。身分や慣習を厳しく守るちょっと保守的な人物のようだった。一方のキャプテンは快活な人物に見えた。感じのよい顔立ちに、明るい表情。精悍な体つきといい、ひょいと手すりに飛び乗ったりする身軽な動作といい、よく訓練された船乗りのようでもある。傍でまじまじと見てみると驚くほど小兵だったが、大尉を見上げるその両眼は他人の心の中まで見透かしてしまうような鋭い光を放っていた。
 
太平洋に乗り出してから37日目の朝、咸臨丸はサンフランシスコの港に錨を下ろした。
人々は海の向こうからやってきた侍たちを熱狂的に歓迎した。新聞記者で詩人のホイットマン氏は侍の行列を見たときの新鮮な驚きを詩に残し、新聞記事にした。彼は行列の中にいた小柄な侍の風貌に衝撃を受け「あれこそが人間の顔だ」と書き留めた。詩人の心をも揺さぶった艦長・勝麟太郎の精悍な目元や理知的な額は、メリケンでもちょっとした評判になった。
当の勝さんは、これまで書物で読んだりオランダの軍人さんたちから聞いたりはしてきた「近代社会」というものを肌で感じることができたのを喜んでいた。恩義とか信義などといった私的なつながりではなく公的なルールに基づいて動く集団を、そして門地ではなく適材適所であることを第一に考えた人材の活かし方を実際に見ることができた。裁判所から呼び出しを食らったり、週末ごとにキリシタンの教会に連れて行かれたりという珍しい経験もしたが、この大冒険が元剣術遣いの軍人・勝麟太郎を大政治家・勝海舟へと変貌させる第一歩となった。
それから、女性を船に乗せないという日本の習慣を知ったメリケンの淑女たちが男装して乗船してきたとき、木村さんは素知らぬふりをして土産にかんざしの入った包みを渡すという小粋なはからいをしてのけた。けちな幕府に代わって乗組員たちへの十分な手当を支払うため、また異国で日本人が困ることがないようドル札を用意するために殆ど全財産を使ってしまった木村さん。彼はこの航海が生まれたばかりの海軍の歴史にとってどんな意味を持つものなのかを理解していた。
 
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勝さんとメリケンとの縁は、その後もずっと続くことになる。1867年には15歳になった長男の小鹿(コロク)さんが米国アナポリスの海軍学校に留学した。25歳で帰朝した後は日本の海軍で活躍したが、残念ながら40歳で病没してしまう。この小鹿さんの知り合いで、1871年に来日して静岡学校で英語や科学を教えていたE.W.クラークという米国人教師も勝さんと親しくなった。彼は帰国後「勝安房---日本のビスマルク」という本を出版した。クラークさんはこの本の中で「世界を3周したが、彼以上にナザレ人イエスの人格を備えた人を私は知らない」と書いて異教国の奇傑を絶賛している。1875年に来日したホイットニー一家の娘・クララさんは、勝さんちの三女・逸子さんの親友になった。さらに1886年には頼りなくお調子者の不出来な三男坊・梅太郎さん(母の実家の梶姓を名乗る)と結婚し一男五女を授かった。1899年に勝さんが亡くなると、夫に生活力がまったくないことを実感したクララさんは子供たちを連れて帰国してしまうのだけど、彼女は自身の父親であるウィリアムさんの話も子供たちの父親である梅太郎さんの話もしない代わりに、勝さんとの美しい思い出をよく語っていたそうである。末娘のヒルダさんは日本のお祖父ちゃんをとても誇りに思っていたので、戦時中も「カジ」姓を名乗り通したという。
 
さて、あの航海から145年目の2005年秋。
米国バージニア州に暮らす大尉の孫ジョージ・ブルックさんの家に一枚の日本人の肖像画が保存されているのが「発見」された。A4版ほどのサイズのその絵、左手に脇差しを持ち、ぐっと正面を見据える総髪の侍が描かれている。モデルは勝麟太郎だ。肖像画の裏には「カーンより、ブルックへ」という文字が書かれているという。一緒に乗船していた絵師のカーン氏も大詩人ホイットマン同様、この日本人の風貌に創作意欲をかき立てられたのかも知れないね。
 
・・・ということで、安政7年1月13日(西暦1860年2月4日)は「咸臨丸品川出帆」の日でありました。
木村さんが私財を擲ってまでお金を用意した話、その覚悟と責任感において個人的に好きな話なんですが、これってよく考えてみると非常に「日本的」なんですよね・・・。明治時代に勝さんが「日本では外国とは違って、指揮官たる者普段から態度が立派で面倒見が良い人でなければ兵隊や水夫を手足のように動かすことはできない。上官となる者は兵卒の10倍頑張らなくてはいけない。」というような意味のことを書いてますが、わざわざこんなことを言わなくてはいけないということ自体、規則や指揮命令系統が厳正でないという状況の現れなんだろうな、という気がしてなりません^^; 
 
【追記】
実はこの「おはなし」、ここ2年ほど歴史本を読んでいるウチのオトンを読者に想定して書いたものであります。無茶苦茶読むのが遅い彼でも読めるよう一文一文を長くしないように、また「歴史ネタ」に疎くてもストーリーを掴めるように書いてみました。
2011年1月に後日談を加えたのち本当に父に読んでもらいましたが、ニヤニヤしながら読んでくれました。そして曰く「最近思うんだけど、勝麟太郎って面白いよな。」。
ええ、面白いですとも。昔から面白えさ。・・・でも、あんま人気ないんだよな(爆)

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2010年2月 4日 (木)

2月4日:咸臨丸品川出帆。(Vol.01)

安政七年正月、江戸赤坂。
 
数日前から風邪を拗らせて寝込んでいた勝麟太郎は、ふらりと起きてきて身支度を始めた。妻のお民さんは吃驚した。
「あなた、そんなお身体でどちらへおいでですの?」
「なあに、ちょいと品川まで船を見にいってくるだけさ。」
「でも・・・」
「へっへっ、心配にぁ及ばねえよ。すぐ帰ぇるわ。」
 
勝さんはふらりと家を出た。高熱でぼうっとしている。頭がガンガン痛む。ときどき苦しそうに咳き込んだりしているが、不思議と足取りはしっかりしている。
彼は戻らない覚悟をしていた。
「おいら、船乗りだよ。艦上で死ぬなァ覚悟の上さ。畳の上で犬死なんぞ頼まれてもしてやるもんか。」
 
前年、幕府は新見豊前守正興さまを団長として日米修好通商条約批准のための使節団をメリケン国の首都・華盛頓に送ることを決定した。使節団はメリケンの軍艦ポーハタン号に乗せてもらうことになった。
「何でい、俺らがいるのにわざわざメリケンの船で行くこたぁねえじゃねえか。」
その話を長崎で聞いていた勝さんは憤慨していた。そこで江戸に戻った折「使節団の派遣は是非日本の船で行うべきである」と幕閣の連中に直談判に行った。
「馬鹿を言うでない。軍艦の操舵を習ったのは僅か4年、どうして太平洋を渡れると云うのだ。」
幕府は彼の訴えを突っぱねた。が、そこで引き下がる勝さんではなかった。
「それでは日本船を予備として派遣するというのは如何でしょう。冬の太平洋です、万が一メリケンの船が難破するようなことがあれば・・・」
「そうか、それもそうだ。」
岩瀬忠震、水野忠徳といった人たちが彼の意見に賛成した。勝さんは随行艦の艦長のような立場になった。 
 
派遣される軍艦は当初は観光丸を予定していた。10年前にアムステルダムで建造された木造外車式蒸気船である。全長51.82メートル、排水量780トンという然程大きくもない船だ。幕府が所有した最初の蒸気船がこの船だった。
ところが、それを聞いたオランダ人の海軍の先生がストップをかけた。
「この船では危険だ。外車式の古い船である。太平洋を越えられるとは思えない。」
幕府は急遽随行艦の変更を決めた。全長48.8メートル、排水量625トンと観光丸以上に小型ではあるが、2年前に幕府が10万ドルを出して買い上げた最新のスクリュー式蒸気船。原名ヤパン号、日本名は咸臨丸である。安政6年師走の24日、出航直前のことだった。
随行の言い出しっぺであり、軍艦操練所教授方頭取という地位にあった勝さんは積み荷の積み替えに追われた。冷たい雨が連日降り続いた。毎日ズブ濡れになった。彼は珍しく風邪を引いた。
 
遂に高熱を出してダウンした勝さんは、寝床の中で腹を立てていた。メリケン人を一緒に乗せていくことになったからである。
「へん。木村さまたちの指金だな。俺ら日本人だけじゃ心配だからメリケン野郎を一緒に船に乗せようって魂胆にちげえねえ。歴史に残る航海だってのに、これじゃあどうせ日本人だけじゃ海を渡れなくってメリケン人の助けを借りたって話になるに決まってらあ。クソ面白くもねえや・・・」
 
出航当日、船には本当にメリケンの軍人が乗っていた。乗組員は日本人96人、「メリケン野郎」11人。
勝さんの怒りと不満はピークに達した。体調はどん底である。船室に降りてゆくと、いきなり引っ繰り返って寝てしまった。
 
軍艦奉行・木村喜毅は「面倒なことになった」と思った。木村さんはときどき、勝さんを苦手だと思う。嫌いではなかったが、何というか「持て余してしまう」のだ。木村さんが長崎に派遣されたとき、勝さんは伝習所の舎監で伝習生のリーダーの一人だった。和蘭語が堪能だったからオランダ人の先生たちの手伝いもやっていた。先生たちの間では「頭が良く、明朗で、その上人当たりも良く親切」と評判の男だった。
ある日、伝習生があまりにも早く操練を終えて帰港してくるので木村さんは苦言を呈したことがある。勝さんは「気に入らねえ」という顔をしたが、直ぐにニッコリと笑って「ようござんす」と答えた。
暫くして勝さんが「ねえ木村さま、一度操舵の演習をご覧にいれますからご乗船になったら如何です?」と言ってきた。木村さんは言われるがままに船に乗り込んだ。
風の強い日だった。波が高く船はやたらと揺れる。船に慣れていない木村さんはだんだん気分が悪くなってきた。
「ここは何処だ。そろそろ戻っては・・・?」
木村さんを一瞥した二重瞼の目は笑ってはいなかった。
「何を仰有いますぇ、ここはまだ天草から5、6里のところでんすぜ。せっかくですから今日はもっと遠くまで行ってみようと思っておりますのに。」
あのときのことは思い出したくもない。だが勝さんが操練を早めに切り上げる理由は理解できた。この小普請上がりの舎監は、木村さんを含む身分の高い連中が困っているのを見て内心ニヤニヤしているような悪趣味な男だったが、若い伝習生たちには優しかった。
 
木村さんは地位的には大将とか提督のようなものだったが、航海の知識は殆どない。今回も困ったことがあれば船室に降りていって部下の勝さんに相談しにいくしかないのだが、「あなたが上官でんしょう、勝手になすったらようございます。あたしゃあ、あなたがたに指図できるような立派な御身分じゃござんせんのでね!」と当たられるのがオチだろう。もともと気が短くて臍曲がりの本所の旗本である。寝込むついでに例によって癇癪を起こして引き籠もっているに違いない。彼の癇癪玉は一級品で、ひとたび破裂すれば誰も手をつけることができなかった。
木村さんは彼の癇癪の原因が不平不満であり、その根本的原因がメリケン人の同乗だけではなく、「身分」にあることも知っていた。何故あんなに怒るのかは全く理解できなかったが、怒りの理由については彼にも十分に察することができた。幕府海軍の精鋭である筈なのに下っ端役人でしかない勝さんは、指揮官の仕事を任せられながら身分が上の者には必要な指図さえできない理不尽さに怒り、その非合理性が海軍発展の妨げになっていることに憤っているに違いないのだった。
 
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調子に乗って書いていたら長くなっちまったので、Vol.02につづく・・・。

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2010年1月21日 (木)

111回忌。

明治32年(1899年)1月19日、夜。
 
東京の戸川邸では夕食後の穏やかな時間が流れていた。時計は午後8時を回ろうとしている。
さきほどまで正月らしく百人一首のカルタ取りに興じていた子供たちも床に就こうとしていた。
 
電報が届いたのは、そのときである。
「何、電報か。どこからだい?」
「だっ、旦那さま、『氷川』とあります。」
 
赤坂区氷川町といえば、戸川先生の長女の嫁ぎ先である匹田家のある場所である。
匹田家は昔五千石の大身旗本の屋敷、今は伯爵・勝家の敷地内に立っている。長女の夫・匹田元亀さんの母である孝子さんは勝伯の次女だ。
 
「娘の家に何かあったのか?」と、戸川先生は電報を大急ぎで開いた。

そこには意外なことが書いてあった。

 
「トノサマシス スグコイ」

 

「殿様死す・・・?」
 
戸川先生はハッとした。
勝先生だ。
間違いない。

先生は家を飛び出した。そして闇の中を大急ぎで車を走らせた。
大寒前日。帝都東京は凍りそうな星空だった。

 
勝伯の屋敷には既に客人がいた。伯の三男坊・梶梅太郎さんが出てきて「こちらへどうぞ。」と例の小さな一室に案内してくれた。

いつも勝伯が日々座談を楽しみ寝起きをしていた部屋は暗く、ただ行灯の光が力なく揺れているだけだった。
伯はまるで眠っているかのように、小さな身体をそこに横たえていた。穏やかな顔をして、まるで仙人みたいだ、と戸川先生は思った。
伯の傍らには頭巾を被った年配の女性がいた。一回り年の離れた伯の末の妹、瑞枝さんだ。故・佐久間象山先生の未亡人である。
「これは戸川先生。」
彼女は静かに顔を上げた。
「兄は何んにも申しませんでした。ただ、コレデオシマイと申しました。」

 
コレデオシマイ。
「事、竟(おわ)れり」という意味だろうか。これまた先生らしいや、と戸川先生は思った。

 
この日から、邸内はまるで昼夜の区別などなくなってしまった。ひっきりなしに客がやってきた。
陛下からのお使いがやってきて位階昇進の御沙汰があったり、慶喜公や家達公がお見舞いに来たりもした。

 
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勝伯が脳溢血の発作を起こして倒れたのは、19日夜の入浴後のことだったという。
侍女のお糸さんが助け起こすと、伯はニヤリと笑って「おいら、今度は死ぬかもしれないよ・・・。」などと言ったそうだ。実は伯の頭の血管が切れたことは初めてではない。日清戦争開戦の折などは、怒りのあまり大眩暈を起こしたという。ご本人も「俺はすぐに頭に血が上るから、困ったもんだ」と冗談交じりに話していたこともあったらしい。
正式に薨去を発表したのは21日。故人の意志により新聞などに葬式の広告は載せず、
友人知人の類には「逝去」とだけ伝えたという。いずれも当時としては異例のことだった。

 
ということで、勝先生ご逝去の発表があったのが、111年前の本日1月21でした。(あーあ・・・墓参りに行きたかったな。)

 
合掌。

 
元ネタは戸川残花先生(旧幕臣)の手記。
勝海舟先生への思いの詰まった、その名も「海舟先生」という著作の中にも収められていて、当時の話を読むことができます。
戸川先生は痩身短躯の勝さんについて、「(修行はしてあるが)決して天資強健の人ではない、航海に堪へ得らるゝ身ではない。」と言い切っている。それなのに先生は不屈の精神で頑張ったのだ、と。
とびきり面白いかどうかは別にして、その優しい眼差しが随所に感じられるのがこの著作物のいいところです。
 

 
 
 
・・・しかし「コレデオシマイ」というのは辞世の言葉としては傑作だと思います。瑞枝さんから直接この最後の言葉を聞いた戸川先生も「亦以て先生の高風を仰ぐ可し」と感心されている。だいたい、こんな剽げた言葉で人生を締めくくるなんて、随分と粋な男じゃないか。

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2009年11月15日 (日)

坂本龍馬と相撲。

最近、週末になると勝先生とリョウマのコンビが頭の中を駆け回っていて困る。

TBSのドラマ「JIN」のせいかなあ(汗)

「なんだい、攘夷の先駆けとばかりにおいらを斬りにきたのかい。ふん、まあいいさ・・とにかく上がんなよ」とか「センーセィ(最初の「せ」にアクセント)の言葉には国を思う至誠が溢れちょるぜよ。勝センセイ、わしを弟子にしとーせ!」みたいな台詞がグルグル回っているんだ。騒々しくっていけねぇや。

旧暦の今日、11月15日は、その坂本龍馬の誕生日であり、命日です。
なので、勝麟太郎贔屓の当ブログ的には、先生とリョウマの文久年間のエピソードを話題にしておこう。

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「私は、しじゅう先生を牛若丸といいました。
キレイで、細オモで、小さくて、剣術柔術が上手で、イクサが上手で、
本当に牛若のようでした。
長崎で、龍馬と相撲を取られました。
坂本は、大キナ男で、セナカにアザがあって、毛が生えてネ。
ハア、一緒に湯などにも這入りましたから、ヨク知ってます。」

上背があって体格は大きいけれど柔術を知らないリョウマと、
身体は小さいが柔術は強い麟太郎先生。
小さな先生がでっかいリョウマにくっついてる様子は「鶴に鷹がとまったよう」で見物(ミモノ)だったそうだ。

上記は文久4年2月9日の長崎出張の折りに一緒にくっついていった高木三郎さんの回想談。
聞き手は巌本善治さん。取材は明治32年。
この巌本さん、談話を記録させればピカイチという御仁です。彼独特の読点の位置やカタカナ表記は、語り手の口調や呼吸を再現しようとする工夫なんだと。

高木さんの談話、個人的にポイントは2つ。

1つめは、相撲。勝先生はこうやってよく弟子たちと遊んでいたんじゃないか、って。
長崎に行ったからってイキナリ相撲を取る気になるのも変な話だし、普段からこういう触れ合いのない師弟が突然「はっけよい!」なんて出来っこないだろうし。
「若い人のプライドを大事にする」「大きな仕事を任せて成長を促す」「弟子は自分より出世するかもしれない存在」「人間の価値は身分や立場で決まるもんじゃないから人として対等に扱う」「自分が率先して現場でお手本を見せる」というのが、教育者・勝先生のやり方なんですな。優秀な弟子だったリョウマは福井の殿様と資金援助の交渉をする等、大きな任務をポンと任されたり、先生が偉い人と会うときに一緒に連れていってもらったりしてる。
でね、この「リョウマと相撲」のエピソード、そういう師弟が活動する神戸海軍塾や赤坂氷解塾なんかの自由闊達な雰囲気を伝える象徴的な話のように思えてならんのですわ。師弟の絆(?)みたいなものを感じるとこも滅法素敵だ。

もう一つは、先生が「義経様」ではなく「牛若丸」だ・・・ってとこね(笑)
ええ、大人じゃなくって子供のキャラクターなんですな。
小さくて身軽で生意気で武術ができるお伽噺系美少年キャラの代表・牛若丸。映画やドラマの中で、そんな「牛若キャラ」の男の「中の人」が歳を取りすぎてたり重すぎたりするのはどうかと思うのは、この談話のイメージを壊すのに賛成できないからってのもある。(苦笑)
そういや司馬先生の作品(「胡蝶の夢」だったかな。殆ど読んでない。)の中に勝さんのことを「妖精のようで気味が悪かった」と表現した箇所があったけど、「妖精」って喩えは「あちこち出没する」という意味だけではないんだろうね。

余談。
この出張の約10ヶ月後の12月6日、長崎にて先生の戸籍上(公認というのが正しいか)の6番目の子供・梅太郎さんが生まれている。
ねぃ麟さん、忙しい出張の間に暇を見つけて一体何をやっていたんだい。
  
この色男め。(-_-;

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メモ:高木三郎(1841〜1909)
庄内藩士、江戸生まれ。勝先生の愛弟子のひとり。日本最初の駐米大使とか領事とか云うべき人。日銀総裁も務めた富田鐵之助さんと一緒に勝先生の長男・小鹿(コロク)さんにくっついてメリケンに留学。
口ではただ「おめえら倅の付き添いで行ってやってくれ」と言いつつ、優秀な弟子を外国で自由に勉強させてやる勝先生はなかなか立派だ。
なお、この高木さんと富田さん、1899年には先生の棺を担いでいる。

■顔写真が載ってる頁「近代日本人の肖像」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/118.html?c=0

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…以上、外出先から更新いたしました。
果たして「JIN」の放送時間まで帰れるんかいな(´・ω・`)

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